はじめに
今は昔、社会人に成り立ての頃の話。場所はオフィスに近い原宿です。私は「ランチは何処で食べようか」と逍遥する中で美味そうな定食屋を発見。店頭にあった生姜焼き定食のサンプルをニセモノと信じてさわってみると、これが実物でマヨネーズが指にべっとり[1] … Continue reading。すると、間髪を入れずに周囲の女の子たちから強烈な一声が。
「きたな〜い、オジさん」。
20代であった私は「オジさん」と呼ばれたのはこの時が初めて、まさに人生を揺るがす一声でした。
では、「どんな人が彼女たちの言う『オジさん』なのか?」「『オジさん』脱出にはどうすれば良いのか?」
「これは、ビジネスパーソンに必須の教養だ」として、この課題と血みどろの闘いを続けた私の結論は「考えてばかりでは仕方がない、とりあえず、『オジさん』らしくない人の真似をするしかない」ということ。とは言っても、身近にそんな人が簡単に見つかる訳はありません。
「それなら、昔の人でも会ったことのない人でも良いではないか!」
というわけで、今回のテーマはそんな人物の一人、ジョン金谷についてお話しすることにしました。
しばしのお付き合いをお願い申し上げます。
チョコレート
ジョン金谷、本名は金谷鮮治。日光にある金谷ホテル[2]1873年創業、日本のリゾートホテルの草分けです。の創業家に連なる人です。
なぜこの人かというと、以前「オフィスのダンディズム」みたいなテーマでプレゼンテーションを頼まれたことがあり[3]余談ですが、中野香織『ダンディズムの系譜』は参考になりました。、参考になりそうな人の中で「この人、恰好がいいな!」「オジさんではないな」と思わせてそくれた一人が金谷鮮治(1910〜1977)でした。偶然の出会いです。コジツケも含めて言えば、この人に関する資料が少なく、それなら「金谷ブランドのチョコレートを食べればわかる」「金谷ホテルに出かけて雰囲気を知ろう」という話になったという次第。
さて、そのホテルの件は追ってお話しすることにして、まずは、ショコラトリー「JOHN KANAYA」のことから・・・。
お酒好きに言わせると、このブランドは「お酒に合うチョコレート」だそうですが、もちろん、スイーツ党にも美味なことは私が保証します。鮮治は時代の先を行く人で、ホテルの社長であった1950年代、当時はまだ珍しかった従業員向けの託児所を設置、海外に出ると子供達にチョコレートを携えて帰国したそうです。ただし、ショコラトリーの開業は彼が天に召されて後の2012年。それでも、私のお気に入りであるオリーブの実を包んだ「ルコルテ・ドゥ・ショコラのオリーブ」[4]冒頭の写真。中央にあるのがその箱。実物を「映える」ように撮るのは難しいので、あしからず。からは、彼のセンスが馥郁と香ってきます。
「オジさん」を回避したい男性諸君、次のホワイトデーのお返しには西洋のブランドではなく、日本のものを選ぶことです。その中でも、この「JOHN KANAYA 」なら間違いなし。君のセンスやチョコレート味に感動した彼女から、「オジさん」などと呼ばれる可能性は(当面)ゼロに近づくはずです。
鬼怒川金谷ホテル
鮮治の祖父は日光金谷ホテルの創業者、金谷善一郎[5] … Continue reading。ローマ字のヘボン博士[6] … Continue readingなど、早くからこうした西洋人との「友だちづき合い」ができた人のようです。その影響からか、ジョン・金谷の「ジョン」はクリスチャンとしての洗礼名。金谷家では家の中も靴を履いたまま、晩年の鮮治はナプキンをして、フォークとナイフで焼き芋を食べていたそうですから[7]小野幸恵『西洋膳所ジョン・カナヤ麻布ものがたり』春陽堂書店、2019、P167。金谷家の家風が目に浮かびます。いやいや、何でも西洋風にすることが「オジさん」脱出の必要条件ということではありません。彼の座右の銘、「East Meets West」[8]関連書籍では「和敬洋讃」と訳されています。が示すように「和」の心も忘れてはいけません。
立教大学を卒業した彼はすぐに事業人としての修行を始めます。まずは、祖父の次男で、叔父の正造が働く箱根の富士屋ホテル[9]1878年創業、正造は創業者の婿養子として経営に携わっていました。で「ホテルマンのなんたるかを叩き込まれた」とのこと。その後、帝国ホテルでも研鑽を積んていますから、日本のホテリエ[10]最近はホテルマンではなくてこう呼ぶとか。の草分け的な存在です。彼・彼女たちの良さは顧客のリクエストにその場でテキパキと応えてくれること、即断即決のスマートさですね。これは鮮治が大切にした資質の一つです。
1953年、鮮治は、善一郎の娘婿である父親、正生(まさなり)の創業した鬼怒川金谷ホテル(鬼怒川温泉ホテル)の社長に就任します。戦後になって、それまでの顧客であった「上流階級」が消滅してしまいましたから[11]公爵、男爵など爵位を持った人々で構成される華族の制度は、戦後すぐに廃止されました。、高級なホテルの経営は難しかったようです。それでも、このホテルからは、戦前の「上流階級」に向けたテイストが今も息づいているような気がします。このあたりが、最近のオーベルジュやリゾートホテル(こちらも素晴らしいのですが)とは一味違うところかもしれません。
ジョン金谷の哲学
彼は「East Meets West」という想いを、改築を控えた鬼怒川金谷ホテルに活かしたかったそうですが、残念なことに完成の前年、1977年に天へと帰りました。それでも「洋式一辺倒の限界」を知り「日本人にあったフランス料理があってもいい」[12]小野幸恵『西洋膳所ジョン・カナヤ麻布ものがたり』春陽堂書店、2019、P129。とした哲学は、まさに鮮治の真骨頂といっても良い気がします。
「主人は、一歩どころか、十歩も二十歩も先を見据えたいたような人でした」とは金谷夫人の評[13]小野幸恵『西洋膳所ジョン・カナヤ麻布ものがたり』春陽堂書店、2019、P145。。私自身、事業人として「洋式一辺倒の限界」を感じることはよくありますし、どうすれば「日本にあった」やり方になるかを模索することは日常茶飯事。その意味で、金谷鮮治という事業人は「十歩も二十歩も先を見据え」た上で、現在に「East Meets West」を表現できる人であったように思えます。
さらに、彼は「食べたいものを即決できないなんて、良い経営者になれない」と幼少の孫を叱ったり、メニューをいつまでも見続けている嫁の優柔不断を注意したりと「即決すること」を重要していました[14]小野幸恵『西洋膳所ジョン・カナヤ麻布ものがたり』春陽堂書店、2019、P166-9。。先ほど、ホテリエのことに触れましたが、決断をする能力や勇気は、ホテルに限らず、事業人としては必須のスキルであるはず。
「ナニゴトも 決めないヤツが 出世する」というサラリーマン川柳を聞いたことがありますが、資料を要求するばかりで何も決めない上司が「オジさん」タイプの事業人なら、幼児の頃から、そして、男女を問わず「即決する」練習をさせる教育を施した鮮治は、その対極にいた人ということになりますね。
そして、ライフスタイルの中で身につけたスマートな振る舞い。もちろん、「和」も「洋」も合わせたものですが、ここまで来ると「オジさん」脱出法が垣間見えたような気がしてきます。
おわりに
この稿を書いている間、時間を見つけて恵比寿にある「JOHN KANAYA」の店まで出かけ、お気に入りの「ルコルテ・ドゥ・ショコラのオリーブ」を買って来ました。
・過去のグチばかりではなく、(数歩くらい先でも良いので)将来が語れること
・情報が100%揃わずとも(100%揃うはずなどないのですが)、決断のできる勇気があること
・和洋に通じるスマートさを備えていること。
鮮治のお眼鏡に適いたければ、この3点は満たす必要がありそうです。冒頭に登場した原宿の女の子たちも同様。私を「オジさん」と呼んだのは3番目に問題があったからでしょう。ホンモノの生姜焼き定食を見本と間違えた挙句、「マヨネーズべったり」がスマートなはずがありません。
それにしても、チョコレートを食べながら思うのは、自身のブランドを冠したチョコレート(別の作品でも良いのですが)にセンスが香るほどの人になりたいと思うなら、血みどろ、否、チョコレートまみれの闘いがこれからも続くであろうということ。それでも、物事は「棒ほど願って、針ほど適う」と言います。将来を見据えつつ、即断即決を心がけ、スマートに、生姜焼き定食に添えられたマヨネーズの虚実確認も怠らぬようにしたいと心に期する次第です。
それでは、ご機嫌麗しゅう。
References
↑1 | このマヨネーズが、肉用かキャベツ用かの記憶はありませんが、今日、生姜焼きにマヨネーズは有りか無しかが国論を二分する議論になっていることを思うと、当時の実態は気になるところです。 |
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↑2 | 1873年創業、日本のリゾートホテルの草分けです。 |
↑3 | 余談ですが、中野香織『ダンディズムの系譜』は参考になりました。 |
↑4 | 冒頭の写真。中央にあるのがその箱。実物を「映える」ように撮るのは難しいので、あしからず。 |
↑5 | 東照宮に使える雅楽の楽師でした。長男の眞一がホテルを継ぎ、次男の正造が箱根の富士屋ホテルへ、長女の多満の婿養子が鮮治の父、正生になります。 |
↑6 | 「外国人向けのホテルをやってはどうか」と薦めたのはこの人です。米国の宣教師、明治学院の創立者でもあります。因みに、映画スターのオードリー・ヘップバーンと同じ姓ですが、こちらはヘボン。 |
↑7 | 小野幸恵『西洋膳所ジョン・カナヤ麻布ものがたり』春陽堂書店、2019、P167。 |
↑8 | 関連書籍では「和敬洋讃」と訳されています。 |
↑9 | 1878年創業、正造は創業者の婿養子として経営に携わっていました。 |
↑10 | 最近はホテルマンではなくてこう呼ぶとか。 |
↑11 | 公爵、男爵など爵位を持った人々で構成される華族の制度は、戦後すぐに廃止されました。 |
↑12 | 小野幸恵『西洋膳所ジョン・カナヤ麻布ものがたり』春陽堂書店、2019、P129。 |
↑13 | 小野幸恵『西洋膳所ジョン・カナヤ麻布ものがたり』春陽堂書店、2019、P145。 |
↑14 | 小野幸恵『西洋膳所ジョン・カナヤ麻布ものがたり』春陽堂書店、2019、P166-9。 |
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