桜田門外のコーポレートガバナンス(その2)

人物

井伊直弼のニックネームは「赤鬼」。映画やドラマでも、鬼のような傲岸不遜の人物として描かれることが多いようです。ただし「赤鬼」といっても、直弼が赤ら顔であったわけではなく、これは井伊兵の軍装である「赤備え」[1] 家康は彼が連戦連敗した武田家の崩壊の後、その「赤備え」軍団を井伊家のお抱えとしました。から来たもの。直弼が本当に傲岸不遜であったかどうかはこれからお話しをしていこうと思います。

それでは、今回もお付き合いのほどよろしくお願い致します(写真は井伊家の菩提寺である豪徳寺の紅葉)。

「安政の大獄」


さて、大老となって権限を手中にした直弼、早々に帰趨の定まらぬ課題を強引に決着していきます[2] 日米修好通商条約の調印もその一つ。ただし、直弼の本心は勅許を待っての調印であったようです。。彼は大老就任以前にも溜詰(たまりづめ)[3] ロビーのような部屋で幹部と意見交換をする、今日の顧問的な立場の人たちです。として幕政に関わっており、既に「状況はもはや議論ではなく実行の段階だ」と考えていたのかもしれません。

もちろん、直弼は凡庸な人物ではありません。彦根藩主時代の行政手腕は見事で評価は高く、武道の修練も積んでいます。また、茶の湯、禅にも精通した教養人でもありました。何より、権限を利用して私腹を肥やすような人物ではありません。ただ、私心はなくとも、彼の「公」は徳川家で、日本という国全体ではなかったのかもしれません。幕臣としては立派でも、時代は主家より大きな「公」、すなわち、日本という国全体を考えるべき段階に差し掛かっていました。尤も、今日でさえ、会社の維持・発展を願うあまり、社外への配慮を欠く経営者は少なくありませんね。

「私心がない」という自己認識は、冷徹で徹底した方針の実施へと繋がるもの。直弼も自身の方針と相容れぬ考えの人たちを排除する方針を採り、これが「安政の大獄」と呼ばれる反対派の弾圧につながっていきます。大名、公家、政治的なアクティビストなど、刑殺、自宅謹慎、役職からの更迭など処罰の対象は100人を超えました。


「桜田門外の変」

さて、「これではいけない」と切歯扼腕する反対派ですが、事態を収拾すべき将軍も頼りにはなりません。「誰もアイツを止められない」状況です。大老を牽制するシステム(この場合は将軍です)が機能していないのです。そうなると、抑圧された側は「もはや、尋常のやり方では埒が明かぬ」と、とんでもない方法に訴えることを考えることになります。

1860年、直弼の大老就任の二年後、雪の降る桃の節句の朝、反対派の急先鋒18名[4] 水戸藩を脱藩した浪士17名と薩摩藩士1名です。が、登城、つまりは出勤途上の井伊家の行列を桜田門前で襲撃、直衛部隊26名と戦闘の上、直弼を殺害してしまいます。被害者は彼だけではありません。襲撃した18名はその場で闘死するか、直弼の首を持ったまま自死。生き延びたメンバーも事件後にほぼ刑殺されます。防御に回った井伊家側は、闘死が直弼を含め9名、負傷が9名。その中には事後に切腹となった家臣もいます。無傷の家臣は敵前逃亡とされ、ほとんどが刑殺されました。さらに、主君の首を取られるのは武門の恥です。藩が取り潰される可能性さえあります。そこで、彦根藩は事態隠蔽のために関わりのある家臣を幽閉してしまいました。「凄まじい」と言うしかありません。

川瀬巴水 桜田門
足立区綾瀬美術館蔵

これは160年以上前の話です。しかし、現代でも、代表取締役社長であるトップが反対派の意見を封殺して「令和の大獄」をやってしまうケースがないとはいえません。会社の方針に反対する従業員が、経団連を訪れる社長を大手町で襲撃することはないにせよ、内部通報制度を使って社長を失脚させる例ならあり得流でしょう。圧政下にある人間のメンタリティは変わりようがありません。

では、直弼は本当に傲岸不遜な独裁者であったのでしょうか。


「一期一会」

今日、直弼の人となりに関し、私たちが手にできる一次資料といえば、彼の著書『茶湯一会集(ちゃのゆいちえしゅう)』という一冊です。この本は、主客の心得を茶事の流れに沿って詳細に描いたもので、長い間推敲を重ねた直弼は、最終版を「桜田門外の変」の3年前、彼が43歳の時に仕上げています[5] 筒井絋一『現代語でさらりと読む茶の古典 茶湯一会集』淡交社。

そもそも茶の湯の交会は、一期一会といいて、たとえば幾度おなじ主客交会するとも、今日の会にふたたびかえらざる事と思えば、実に我一世の会なり[6] 井伊直弼『茶湯一会集・閑夜茶話』岩波書店。 

序文にこの言葉がありますが、この時代までに茶の湯が作り上げてきた一つの精神を「一期一会」という四文字に仕上げたのは直弼です。この本には、茶会のアポイントメントから、主客の挨拶、すわり方の心得から、いとま乞いやお礼に至るまで、茶会のプロセスが丁寧に描かれており、そこから想像できる直弼は趣味人であり、茶の湯の精神を愛した沈思黙考の教養人です。「一期一会」の心で客をもてな壮とする姿勢からは、傲岸不遜な独裁者というイメージはとても浮かんできません。

直弼作の茶道具
(蓋置き)
彦根城美術館蔵

幕末の小説やドラマ・映画が好きだった私は、長い間、直弼がヒールで、明治維新の立役者たちがヒーローであるという思考のパターンにはまり込んでいました。最近になって、直弼の事績や人となりを知るに及んで「桜田門外の変」もヒールとヒーローの対決といった視座を離れて、徳川幕府のガバナンスという統治システムの方に目を向けてみようと考えるようになりました。本稿の「桜田門外のコーポレートガバナンス」という突飛なタイトルを付けたのも、そのあたりが起点になっています。

さて、次回「その3」では、そのシステムの今日の姿である、コーポレートガバナンスに目を向けてみることにします。

では、皆様ご機嫌麗しく。


References

References
1 家康は彼が連戦連敗した武田家の崩壊の後、その「赤備え」軍団を井伊家のお抱えとしました。
2 日米修好通商条約の調印もその一つ。ただし、直弼の本心は勅許を待っての調印であったようです。
3 ロビーのような部屋で幹部と意見交換をする、今日の顧問的な立場の人たちです。
4 水戸藩を脱藩した浪士17名と薩摩藩士1名です。
5 筒井絋一『現代語でさらりと読む茶の古典 茶湯一会集』淡交社。
6 井伊直弼『茶湯一会集・閑夜茶話』岩波書店。

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